車えび博士

秋穂がえびの養殖でここまで有名になった背景には、
一人の博士の存在がありました。彼の情熱が、今の秋穂をつくっていると言っても過言ではありません。
博士の足跡を、たどってみることにしましょう。

車えび博士

車えび博士

秋穂の一帯は、かつては製塩が盛んでした。
江戸時代には塩浜の開作が進み、「撫育村」と呼ばれる
毛利藩の直轄地も設けられていました。
明治維新後も重要な産業として発展してきた製塩業でしたが、
昭和30年代になると次第に衰え、多くの塩田が廃田になります。
残されたのは広々とした塩田跡。
活気を失った浜に目を向ける者はいませんでした。

そんな中、ただ一人廃棄された塩田に着目した人物がいました。
世界で初めて車えびの養殖を事業化し、「車えび博士」と呼ばれ、
えび界では知らない人はいない、とまで言わるようになった藤永元作氏です。

塩田の跡を利用し、彼の長年の夢であった車えびの養殖を実現しようとしたのです。
明治36年、山口県萩市に生まれた藤永氏は東京帝国大学農学部水産学科に進みます。
在学中に黄海の海洋調査に参加し、台湾総督府の船で南シナ海、シャム湾、マラッカ海峡などを
巡った際に車えびと出会います。南方海域にはクルマエビ属のえびが多数棲息し、多くが
人々に食されているにもかかわらず、生態学的研究はほとんどなされていませんでした。

「よし、一生かかっても車えびの研究をしてやろう」

藤永氏はそう決意したと言われています。
苦学の末に30歳で大学を卒業した藤永氏は、共同漁業(現在の日本水産(株)の前身)に入社します。
天草の早鞆水産研究所に赴任し、ただちに車えびの研究に取り組みます。
海辺の掘建て小屋の実験場で来る日も来る日も車えびの生態の解明に明け暮れたのです。

そして、入社の翌年には生け簀での産卵・孵化に成功し、車えび養殖の第一歩を踏み出します。
しかし、戦火が激しくなるなどして、研究の成果を商業生産として軌道に乗せるまでには長い歳月が必要でした。

戦後、水産庁の初代調査研究部長の職についた藤永でしたが、役人時代にも車えびへの愛着を断ち切れず、
一人黙々と研究を続けます。そして退官後の昭和38年、山口県秋穂に瀬戸内海水産開発株式会社を設立しました。

廃棄された塩田跡で、世界で初めて車えびの養殖を事業化させたのです。
出資者には渋沢敬三氏や五島昇氏、作家の今東光氏や大宅壮一氏、井上靖氏など、財界・文壇のトップクラスの面々が名を連ね、
車えび養殖の事業化に対する期待の大きさをうかがわせました。

その後、会社が順調に収益をあげるまでには時間を要しました。
ようやく車えび養殖が事業として成り立ち始めた1973年に、藤永氏は世を去ります。
藤永氏の死後、徐々に車えび養殖事業は全国に広まっていきます。それに伴い、藤永氏の会社で育った多くの人材が
水産養殖の分野で活躍するまでに至ったのでした。